5年前の今日。

朝起き掛けに5年前の出来事を思い出しました。
あまりにはっきりした記憶で書き留めたいと思いましたが、
今はぼんやりとしてしまっています。

5年前、
4時間睡眠で家族の看護をしていました。
6年前に判明したその時は地獄の苦しみとはこれなのではないかと思うほどの衝撃でした。ただあまりに唐突の事ではじめはよくわからず、医師に言われるがまま病院通いの日々に。
そして少しずつ事実を受け入れ、それは日常に落とし込まれていきました。

起き掛けにその時お世話になった先生の事を思い出しました。
先生とはご縁としか思えないような共通点がありました。
そして今日11/1は特別な集まりの日でした。
その時先生に再会し、痩せましたね。と言われたことを覚えています。
多く言葉を交わすわけではなく、なんとなく間を持たせようという気になっていたことも覚えています。
あの期に及んでと言いますが、ごく最近まで私は人からどう見られるかをものすごく気にして生きてきました。
所謂自意識過剰です。
社会性といいますか、そうする事が当たり前だったので気づきませんでしたが、フェーズが変わった今だから気がつきます。
あの時もっと自分がどうしたいか、を優先していたら、もっと喜怒哀楽を存分に謳歌できたのではないか、あの時に限らず。ですけどね。

あの2017年11月1日は本当に特別な日で、
5年経った今日思い出した事を運命と捉えています。

本当に大変な思いをしたあの頃を乗り越えて今があり
今日という日を迎えられた事に感謝しています。

そういえば、あの時ご縁のあった別の先生と今月お会いする機会があります。
あの時以降も何度かは病院でお見掛けはしていました。

最近思いますが、色んなもの、事は薄くも濃くもつながって影響し合っている。
これからも日々をつむぎ、ご縁を結んでいきたいと思います。

今日という日。

明日は前々から企画していた『ハロウィンイベント』を開催します。
2か月ほど前から他の企画と同時並行で進め、明日を迎える事となりました。

そして準備もほぼ終えた前夜。

最近の出来事や今までの事を思い、胸が熱くなりました。

というのも
私は長い間、ざっというと生まれてから今まで
あまり生きがいというものを感じられずに生きてきました。

幼少期から物分かりの良い手のかからない子で、
とても落ち着いておとなしい子でした。
ただそれは厳密には大人の前で。という注釈がつきます。

空気を読むんですね、そして人の要望に応える。

そんな能力がありました。

今でもその能力は生きており、最近まで大活躍していました。

ただその能力を発揮すると主体性というものが消し去られます。

 

その能力と主体性をうまくコントロールできず、周囲の人間関係やその場の空気というものに長らく合わせ、自分がどうしたいか。よりも周りにどう思われるか。
そんな風に生きるのが当たり前になっていました。

だから人と関わる事も疲れる事でしかなく、うまく人間関係を築くこともできませんでした。

いまの私を知る人が聞いたら、きっとびっくりすると思います。

 

それでも色んな人に支えられ、不器用ながらも必死に生きてきました。

今に至る数年は本当に大変な事がたくさん重なりました。

ただその大変をきっかけに色んなものの見方が変わり、

今日本当に今まで生きて来て良かった。と思う事ができました。

 

そんな時いちばんに思い出す人がいます。

私を治療してくれている治療家さんです。

私よりも少しお若い方で、時に若さと荒さが見えますがw

私に色んな事を感じる事を教えてくれました。

というのはその方の治療がそうして身体やこころに変化が起きたからです。

長年の無理も重なり、寝たきりになった時に行った病院で出会い

今もお世話になっています。

人は自分一人では難しい事があるけれど、こうやって人の力を借りれば

寝たきりから回復もできるし、色んな事が好転する事できる。

そんな人に頼るという経験をさせてもらっています。

 

人に頼るって意識的に、こころから望んでそうする事もできない人生だったので私にとってはとても大きな事でした。

 

そして大変な時の事は当時墓場まで一人で抱えていきていくつもりでしたが

話をすることができる人も出てきました。

 

今はどこかに出かければ、声を掛け合えるような友人、知人がたくさんできました。

その場で会った人ともさほど気を使わずおしゃべりを楽しめるようになりました。

そんな今の日常がとてもしあわせです。

本当に今日という日を迎えられて、毎日がんばっていきてきて良かったなぁ
と思わずにはいられない。イベント前夜です。

0919 心身、こころについて

今年は季節の変わり目は感じるものの、
例年になく蒸し暑いですね。
まもなく秋分を迎えると暦の上では秋。
日中の暑さが、というか湿度が和らいでくれるといいです。

今年の夏は去年よりもたくさん活動することができました。

私は持病があり、そこについては良くなっているわけでもなく
去年よりも状態は良くないです。
ただ、身体を壊して約4年。
からだやこころとの向き合い方は上手になったようです。

我慢(ストレス)があれば、痛む、過食。重たくなる、痛い、動けない。
いつもだいたいこの過程を踏んでいました。

過食の時点でやめれば、無駄に食べる事さえしなければ
臓器への負担もなく、太りもせず、乗り切れると思っていました。
ただそもそもの『我慢』この段階で対処を誤ると途中で消化するのは難しいです。

そしてこの我慢しない。という経験を最近は着々と積んでいます。

はじめは我慢をしているということにすら気づかず、
何が嫌か、何に我慢しているか。もわかりませんでした。

それがだんだんとわかるようになり、
『ノー』と言えるようになりました。

そうすると、味を占め、
自分の意見を言わない事に違和感や不快感を覚えるようになりました。
必要ないとわかっていても、ずっと捨てれない。
見て見ぬもふりもできないような嫌な感覚です。
そして、自分の意見や考えを言うようになりました。

そもそも、言えなかった時、
言わなかった時はなぜそうしなかったも振り返ってみました。

そして出た答えは
人からどう思われるのか。を気にしていたからという結論に至りました。

フラットで調和的、出る杭は悪。
そんな価値観がありましたし、意見したことになにか反論される怖さもありました。
そう考えるとそれを乗り越えるってとてもすごい事だぁと
我ながら褒めてあげたいです。

そんなきっかけをくれた人がいた。という事も大きかったです。
彼女は外国暮らしも長く、これでもかと自分の意見を言って(押し付け)いました。
彼女が何か言って私が黙ると。
『私押し付けてる?』と聞いてきました。
正直、境界域を超えて、押し付けられていました。

私はそこまで強く自分の意見を人に主張しないし、
あなたはあなた、私は私というスタンスでやっていたので
我こそが正義。
そんな彼女のアイデンティティーはとても不愉快なものでした。
ただその彼女と関わって3回目。
私は耐えきれず、
『あなたはそうかもしれないけど、私は違う。私はこう思う。』

彼女の強い口調と語気に負けじとそう発したのです。
すると彼女は私の言葉に耳を傾けてくれるようになりました。

これが私にとっては強烈な体験で
しばらくは今まで見たことのない景色、
外国にでもいるように日常が違って見えるようになったのです。

そんな経験を経て、自分の意見を言う事。
それが我慢しない。につながる。そんな風に思っています。

そうしていくうちに、
自分のすきなもの、きらいなもの、快不快
自分の感覚をきちんと感じ取れるようになってきました。

最近思ったしあわせについては
喜怒哀楽を味わえることです。

嫌な事があれば、怒り、悲しみ。
満たされる出来事には喜び、歓喜します。

身体はいろんな問題を抱えていますが、
それでもこころは健やかでしあわせという言葉がちらつく、
そんな3連休を過ごしました。

人との縁と違和感。

今日は思うことの多い日でした。
思うというよりは感じるというか。

先日16歳愛猫との付き合い方を見直そうとしたばかりですが、
本日は人との付き合いというか距離感について考えました。

私は既婚で夫がおります。
少し前夫が最近ミミ(愛猫)がすごく訴えかけてくる。
と話していました。
傍から見ている私は依然とそう変わらないように感じました。
そして私はミミは訴えかけられてもわりと事務的な反応をしており、
それを知ってたか、訴えに応じる夫の方に強く訴えかけているように感じていました。

そこで思った事が、
人は(猫は)やはり、聞いてくれる人に話す、訴えかける。と言う事です。
反応のない人に言ってもなしのつぶてですからね。

私の場合、物事のすべてにおいて責任感の部分が大きく
愛猫や子育てにおいても可愛がる至上主義ではないわけです。

夫は私よりは無責任でマイペース、自由な人で、やらなければいけないことよりやりたいことを優先する人間です。
特に家の事に関しては。
だから猫にも子供にも自分が可愛がりたい時に自分のタイミングで接します。

話が反れて来たので戻しますが、
昨日から私が愛猫への向き合い方を変えたのは愛猫の寿命を考えたからです。
最近少し具合の悪い事も増え、当たり前に16年間いてくれた日常に変化が訪れる時を想像しての事でした。
そうした時、愛猫の訴えはすべて向き合うことにしました。
撫でていても10秒で気持ちが変わる、噛みついてくるので少し嫌になる時もありますが、とりあえず望んでいると思われる事には対応しています。
すると以前よりも寄ってくるようになりました。
というより、寄ってくる愛猫を私が意識的に受け入れている部分も大きいので見方が変わったという点もあるとおもいます。
ただつまるところそうゆう事で観測する前とあとでは物事が違って見えるんです。
意識しなかったものもふとしたきっかけであるような気がすると実際ある、見えるに変わってきたり。

そして前置きが長くなりましたが、
本題の【人との…】ですが、縁あって知り合った人と交流を取るうちになんかしっくりこない事ってありませんか?
知り合った時は盛り上がったのに、とか
なんか嫌というか、違和感ですよね。

私は最近自分の選択に自信を持てるようになりました。
その前段階として自分の感覚を頼りにするようになりました。

そんな中でこの人とはこのくらいの距離感がいい、またこの人とはこのくらい。
人によって近い方がいい人、遠い方がいい人。などがあります。

遠い方がいい人は相手から受け取るというか、感じられる距離感も遠く何か隔たりのようなものを感じます。
これは相手がどうというより、自信がその人に対しての心の距離と=なんですよね。

わりとオープンマインドの私なんですが、
やはりオープンにしやすい、しにくい人が当然います。
そのしやすい人を選び、過ごす時間は本当に楽しいんですよね。
時間は有限、人にも物でもフィットする感覚を大事に
人生という有限の時間を過ごしていこうと思う今日です。

休む、休息すると言う事

最近、私にとっては物事がとてもスムーズに進んでいました。
ただスムーズに進みすぎて止められない。
占星術的にはグランドトラインという星周りで起こったものと考えています。

基本何かをしていないと落ち着かないわたし。
2.3年前までは『しなければならない』という思考で動いていた。
動けていた。と言う事もあります。
ただ3年前持病が悪化し、寝たきりを余儀なくされました。
それまでもこの10年間で寝たきり、車いす、松葉杖を経験していましたが
一過性、回復が早かったこともあり、自分の在り方を見直すには至りませんでした。

人には癖があり、それは長年培ったものです。
そこには生活習慣や取り巻く環境、精神。など様々な要因があるので
頭で理解した気になっても中々難しいものです。
人には恒常性という急激な変化を受け入れがたい機能もありますしね。

ただ3年前の寝たきり、そこに至るまで、回復して日常を送れるまでの日々、今日に至るまではそれまでの私の人生を一変する価値観が変容する出来事となりました。

私を見る周りの人は休んでね。とよく声を掛けてくれます。
私もそんな声を掛ける時があります。
ただ休むとは…

寝ていれば、何もしなければ休めているのか。

睡眠にもエネルギーはいるし、しっかり眠るためには体力や栄養、心の状態。
質の良い睡眠をとることもそう容易くはありません。

眠れないと疲れが蓄積し代謝が滞り身体にガタがきます。

そんな私が今日思いついた事。
私にとっての休息とは…所謂癒される。というやつなのかなと結論付きました。
そして私にとっての癒しは
・猫のけづくろいをお手伝いする。
・猫と昼寝をする。
・土いじりをする。
そんな事こころが平穏になる時間を持つと夜もぐっすり眠れます。

ただ日常はやる事に追われ、忙しい時こそそういった事が二の次、三の次。
社会活動って忙しいですよね。
でも最近頭がパンクしそうだった私がこんな風に一旦着地できてよかったなぁと思っています。

日常は人間は連続体で色々あるんですよね。

ただ時に時に立ち返れる場所や物事があるっていいなとおもいます。

乙女座満月、土星魚座入り。自分とも他人とも戦わない。

本日、水瓶座に2年ちょっといた土星魚座に移動します。
そして同じ頃乙女座サインで満月が起こります。
※太陽は魚座にありますね。対向サインにあることで起こるのが満月です。

水瓶座土星の期間。
すごくがんばったなぁという感想です。
人生、誰でも常に頑張っている。そんな風に思えるようになりました。
疎外感からうまく自己主張できない、我慢ばかりという思いでしたがそんな事を払拭。
未だ人から嫌われたくない思いはありますが、
それでも自分の意見を言う。
誰かの意見を否定しているわけではなく、
『私はこう思う、こう考える。』
そんな事を習得できた水瓶座土星期間でした。

水瓶座太陽の私はもっと良くしたい、こうしたら、ああしたら。
誰かの何かに意見し、相手に気を悪くさせてしまった経験があります。
ただそれは人の何かに乗っかって意見しているに過ぎません。
相手に意見するなら、私も一から何かを提案する。
まずは土俵に立つ。その上で意見する。
自分が個人的にも集団の中でも主体的に動く、
そんな経験をしたことで今までと物の見方が変わりました。

そんな中、人の意見を知りたい、考えたい水瓶座の私。

他人と自分の間合いや考え方の違いに思い悩み
何度も自分を見失いそうになりました。
頭で理解し自分の気持ちに蓋を被せ、後から大爆発(昨日の事ですw)なんてことも
たくさんありました。

そんな中、
『自分とも他人とも戦わない。』
この言葉を思い出しました。

できたら苦しみません、苦労しません。

でもさっき友達から教えてもらったインスタの人の言葉でやっと肩の力を抜くことができました。

アナタが自分の価値に気づくと、それを理解できない人たちに興味がなくなる。
アナタがやりたい!と思うことに無駄なことなんて1つもない。

水瓶座土星、最後の課題のように思いました。
誰かに認めてほしい、善く見られたい。それを思ってもいい。
でも大事な事は私が私の価値に気づくこと。
私のがんばりを蔑ろにしない。

そういった自分の誇りと尊厳に力をくれた水瓶座土星期間でした。

最近思う事ですが、
ほしいものはやってくる。わりとたまにやってきます。
それに気づくともっとたくさんやってきます。
そんな経験をこれからもどんどんしていく予定なのでシェアさせてください。


私含め、毎日皆さん本当におつかれさまです。
皆さんのがんばりを身近なひとの頑張りにたくさん気づく大切にしていきたいと改めて思いました。

遠慮と思いやりの違い 2

はてさて、前回の続きですが

人と接していて嫌だなぁと嫌悪感を感じる部分は
そうじてそれに×のジャッジをしている事だったりします。

〇か×か、正か非か、など

それは個人の価値観であり、
今まで培った中で導き出した潜在的なものだったりするので
生まれた国、環境によって大きく異なってくるものだと思います。

生きるために人のものを盗む事が良しとされる価値観があれば
そんな事は絶対にしてはいけない。
そう思うには生きる事がすべて、
生きる事は無意識でどう生きるかに目を向けている。
どこにポイントを持ってくるか
そんな事で違ってくると思います。
その根底には欲や集合意識(社会意識)の違いなどがあると思います。

そして自分が×とジャッジを下した価値観にも理由があります。
過去にそれをされた時嫌な思いをした、トラウマなど
人は嫌な思いを潜在的にも記憶します。
それはまた嫌な思いをしないための防御策です。
生きる上で辛い、ショックな出来事は生命力を奪う事にも
つながりかねません。
自分の心と身体を守るために嫌な事を記憶するという事は大事な事です。

ただそこに縛られてしまうと
あらゆる物事に制限が多すぎて
生きづらさになってしまうと思います。

幼少期、健全な自己形成が培われなかった人は
その後の人生、それを埋めるために時間を費やしたり
健全な人とは違う大変さを背負います。
三つ子の魂百まで

というやつですね。

でも3歳には今更戻れませんw
どうしたら良いかはまた次回。