純粋な想い、heartwarmingを演出します。

まだまだ寒い日が続く今日は節分ですね。

旧暦の大晦日。いつも手を入れていない場所もお掃除して
玄関にミリオンバンブーを飾りました。

昨日までは夫がテレワークで1週間ほど家にいたため
今日はひさしぶりに家でひとり家事に勤しみ、
朝から恵方巻の準備をしました。

そんな中、今後やっていきたい事のアイデアが泉のように溢れてきます。

ひとつは語り合う会の実施、テーマは『大切なこと、大切にしていること』

自分の意見をアウトプットしつつ、
色んな人の話を聞いて、会が終わる事には心が温まる
『heartwarming』な時間を設けたいと考えています。

私は自分の考えを人に話すのが好きです。
そして他の人ならどんな風に思い感じるのかがいつも気になっていて
自分と違う考えに触れることが大好物です。
人の考えは心。こころが言葉や声にのって感じ取れます。

まさに一石二鳥。自分がたのしい、みんなも(多分)たのしい。
人と集まれる機会を作る。

我ながらいい事を思いつきました。

会の中にはゲームタイムで一世風靡したあの
『まじかるばなな』を仕込む予定です。

やってもやらなくてもいい事をあえてする。楽しむ。
そういった時間が人生に彩を与える。
そんな経験を最近もしました。

私の湧き上がる純粋な想いをかたちにして
みんなと楽しい時間を共有したいです!!

ゆるすと言う事について

こんにちは、宿り木です。

2.2ぞろ目の日は縁起がいいとかなんとか。

今日は朝から少し外に出ました。
(郵便ポストへ投函に行っただけですがw)

先日『歩く瞑想』というものを知りました。
歩きながら自分の事を俯瞰するというもの。

私は歩いている時、思考・こころの整理をしています。
直近起きた出来事にああ思った、こう考えた。など
これはこの歩く瞑想だなぁと思いました。

昨日も湧き上がるネガティブな感情について思い巡らせていました。
その理由を考えたところ、嫌な事をされた。
あれだけ嫌な事をされたら嫌うのも仕方ない。
ただ、今日になって高ぶる感情は収まっても釈然としない。
そして朝外を歩いていた時にふと思ったことが
あの時、嫌な事をされて『許さなければならない』と思いこんだことが原因だった。
と言う事に気づきました。

許すことで楽になる、なんならなかったことになる。
そんな風に考えていたかもしれません。

この事を受けて今の私の考えは違います。

許さなくていい。
許したくなったら許せばいい。

相手との関係性を大事にするあまり、相手の気分を害さないため
そんなことのために自分を犠牲にする必要なんてなかったのです。

ただこれは許しません。と宣言するなどする必要もなく、
起きた出来事にはそれなりに対処する。
そこで大事なのが自分の気持ちをごまかさないこと。
許せない時は気心知れた人に『嫌い』『面白くない』『許せない』
そんな本音を話すだけで予後が違ってきます。

ネガティブに感情が働くとき、
怒りや嫉妬、妬み、嫉み、など色んな感情がありますが
その根底には悲しみが眠っていると思っています。

その悲しみに気づけたら『悲しかった』
その一言を伝えるだけで拗らせずに済みますが
なかなか気づけない事もあります。
悲しみより怒りの方が大きく感じることもあります。

怒りは収まるに越した事ないですが、
悲しみの放置はちょっと自分がかわいそうですよね。

嫌な事をされたら、誰だって嫌だと思うし、悲しいし、傷つくし
時に怒ります。

そんな感情も私の一部。
許せる時が来たら許そう。
そんな心構えでいられたら回復にかかる時間も短縮できると思いました。

しあわせとは?プロローグ

はじめまして、3度の飯より分析好きのsalonやどり木のりえです。

日課である夜のお掃除をしていて、
ふと、【しあわせについて】思い巡らせので書き留めております。

冒頭の通り、私は分析好きでだいたい人間を対象に様々な事に思考を巡らせています。

そして今日のテーマは『しあわせ』についてです。

はてさて巷では幸せになりたい。幸せになるには…などの文言を耳にします。
時に『あ~しあわせになりたい♪』内田有紀さんのだいすきな歌を思わず口ずさんでみたり(世代もあるし、そこは私だけかなw)


皆さん、人生で一度はこの捉えどころのない
『しあわせ』というものについて考えた事があるのではないでしょうか。
書く言う私は、頻度多めに考えてきた自負があります。

しあわせとはなるものなのか、してもらうものなのか?
はたまた感じるものなのか。

この疑問に付随するエピソードとして思いつくのが

私は結婚する時、夫に指輪を買ってもらいました。
そして指輪を買ったあと乗ったエスカレーターで
『幸せにするよ。』だったか『幸せにするね。』
みたいな事を言われた記憶があります。

その時の私の反応たるや、まぁぼんやりしたもので、
ろくすっぽ反応を返さなかった記憶です。
今思い返せば、『しあわせにするよ。(するね)』に具体性がなかった。
要はピンとこなかったのだと思います。
ドラマで見たようなシチュエーション。
流れ的に夫も言葉をかけたのだと思いますが、当時20代の若者だった夫にしあわせの具体案があったとも思えません。
まぁ雰囲気とか流れって至る所にありますしね。
で?、だから?、何をするの?何をしてくれるの?
そんな事が必要ない時もあるというわけなんです。
何かを得るためには何かをする必要があると考える実直派の私。
アラフォーになって10数年前の『しあわせにするよ。(するね)』に疑問を呈する時が来ようとは…fin