遠慮と思いやりの違い 1

暖かい日もちらほら、#占星術 的には太陽が魚座入りしました。
寒い真冬の季節は終わり、
暖かい、寒いを繰り返しながら春に近づいていきますね。

先日、お友達に『察しては【悪】』という話をされました。

例えば、
目の前にお菓子があって
それが食べたいとき食べたいというは○
食べたいなぁ、譲ってくれないかなぁは×

この時点では厳密に罰でもなく
誰かが食べてしまった時にそれ食べたいと思ってた。
食べたくても、私は言えない。そうゆうのわかってよ。
↑これが×で察してというやつですね。

察してほしい、言わんとしてわかってほしいは世の常だと思います。
私も最近人間関係を省みた時、
言わんとしてわかってもらえる人とそうでない人との
関わる上でのストレスの違いを感じ
自分にとって心地よい人間関係を選ぼう。などと思い巡らしていました。


そして遠慮と思いやりは違う。と言う事も話されました。

誰かを思いやってるつもりで遠慮する。
自我を押し殺す。相手を立てる。
当然、こういった場面が必要な時もあります。
ただ事人間関係において伝え方の重要性はありますが、
思っていることを言わないは美徳でもないのかなというのが
私の最近の考えです。

とは言え、
誰彼構わず言いたい事を言うのも違いますよね。

この場合の遠慮しない発言とは
この答えは私の中で昨日感じたのですが
言いたいことが出た時、思いが強かった時
感覚に従ってと言う事でいいのかなと思いました。

言いたいことを言うって出来る人にはできるし、
場面によってもできないし、
関わる人によってもというところもあり
社会性と隣り合わせで
社会で関わる以上、悩みの上位にくる、問題提起されやすい部分なのかなと思います。

ちまたではそういった伝え方や話術がソーシャルスキルと呼ばれて近年話題ですね。

ただ技術より先に取り組むべき事があると私は考えています。
その取り組みは自分と向き合う、自分を知るという方向で
この辺がクリアになると人間関係の悩みがぐっとハードルの低いものになるとおもいます。

この続きはまた次回。