遠慮と思いやりの違い 1

暖かい日もちらほら、#占星術 的には太陽が魚座入りしました。
寒い真冬の季節は終わり、
暖かい、寒いを繰り返しながら春に近づいていきますね。

先日、お友達に『察しては【悪】』という話をされました。

例えば、
目の前にお菓子があって
それが食べたいとき食べたいというは○
食べたいなぁ、譲ってくれないかなぁは×

この時点では厳密に罰でもなく
誰かが食べてしまった時にそれ食べたいと思ってた。
食べたくても、私は言えない。そうゆうのわかってよ。
↑これが×で察してというやつですね。

察してほしい、言わんとしてわかってほしいは世の常だと思います。
私も最近人間関係を省みた時、
言わんとしてわかってもらえる人とそうでない人との
関わる上でのストレスの違いを感じ
自分にとって心地よい人間関係を選ぼう。などと思い巡らしていました。


そして遠慮と思いやりは違う。と言う事も話されました。

誰かを思いやってるつもりで遠慮する。
自我を押し殺す。相手を立てる。
当然、こういった場面が必要な時もあります。
ただ事人間関係において伝え方の重要性はありますが、
思っていることを言わないは美徳でもないのかなというのが
私の最近の考えです。

とは言え、
誰彼構わず言いたい事を言うのも違いますよね。

この場合の遠慮しない発言とは
この答えは私の中で昨日感じたのですが
言いたいことが出た時、思いが強かった時
感覚に従ってと言う事でいいのかなと思いました。

言いたいことを言うって出来る人にはできるし、
場面によってもできないし、
関わる人によってもというところもあり
社会性と隣り合わせで
社会で関わる以上、悩みの上位にくる、問題提起されやすい部分なのかなと思います。

ちまたではそういった伝え方や話術がソーシャルスキルと呼ばれて近年話題ですね。

ただ技術より先に取り組むべき事があると私は考えています。
その取り組みは自分と向き合う、自分を知るという方向で
この辺がクリアになると人間関係の悩みがぐっとハードルの低いものになるとおもいます。

この続きはまた次回。

バレンタインデー、いつも思い出すあの言葉。

今日はバレンタインデーです。
ひと月前は作りたいものがあったり、やりたいことがありましたが
計画倒れに終わりそうです…

私はイベント好きで
だいたい1か月半前にはイベントを意識して
あれこれ計画を練ります。
ただ最近の傾向は体調の波に襲われ
実行に至らない事、当初の予定よりも簡易的なものになる事が多いです。

10年前
夜中3品の焼き菓子を焼いたことを思い出します。
3年前
ヨガレッスンがバレンタインデーで
来てくれた生徒さんにオートミールのクッキーとブラウニーを焼きました。
それ以外の年もガトーショコラやココアテリーヌetc
散々焼き菓子を焼いてきましたが
今年は息子の友達用に市販のチョコをラッピングしたのみ。

比べてしまっても仕方ないのですが、
イベントの規模が縮小していますね。

そしてこの時期になると思い出す言葉があります。

『報われなかった恋はどこへ行くんだろう。』

私が22.3歳の頃、ロフトの垂れ幕に書かれていた言葉です。
それを見て友達とどこに行くんだろうね。
と話した事を思い出します。

未だにそれを思い出すときがあって、
本当にどこに行くのか、いまだ気になっています。

どこに行くのか知っている方、どこに行くか検討のつく方が
いらっしゃればぜひお聞かせください♡

分析思考、人間関係から自分を知る。省みる。

横浜は一昨日雪が降り、大寒波に見舞われましたが
昨日は暖かく外を行きかう人も多く、日中は薄着の人もちらほら見受けられました。

先日、私のブログに興味を持ち読んでくれた友人から
私の『分析思考』がすき。という言葉を頂きました。

振り返れば、年中無休、終日分析中なわけですが、
分析思考という言葉を初めて投げかけられたわけでハッとしてしまいました。
言葉や字面の持つ力は結構ダイレクトに響きますね。
響いたのは私に思い当たる節があったからだと思いますが…

そんな私、先週から週4日3時間ほど友人4人と電話で話しました。
会話の内容は人間関係で起きた事、占星術の事、昔の話。etc

人と対話すると人の意見に触れ
自分が発する言葉を客観的に耳にすることでの気づき、
相手のとの価値観の違い。など
知的好奇心が満たされとても楽しいです。
私は自分の事を話すのが好きなので、
そこに意見をもらえることも楽しいです。
ただ、人と関わる時、私が大事にしていることがあって
それを侵害されると嫌悪することもあります。

人は自分の価値観を著しく阻害されると怒る。

何年か前にこの言葉を聞いて深くうなずき、時々思い出すことがあります。

人には自覚、無自覚問わず価値観があって
価値観が違うとその主となる部分の相違から意見が相容れないということはあります。
それは至って普通の事で
それを著しく阻害されるた時に怒りを覚えるそうです。
先日もそんな状況を経験しました。

私の場合、距離感を大切にしています。
普段はとてもフランクだったり、人の間合いに入る事を厭わない風ですが
相手の様子を常に観察して間合いを図っているので
不適切に距離を縮めないようにしています。
それは意識的に行っている部分ではなく
無意識な部分です。

以前ある人に私の距離感、間合いの取り方を褒められたことがあります。
必要以上に踏み込まない、察してくれるのを感じるから楽だ。
という事です。
この距離感、常に一定ではありません。
時として少し近づく、近づく距離感が必要でなくなったら引く
そんなフレキシブルさを持ち合わせています。

距離感とはあらゆる場面で発生しています。

パーソナルスペースというやつです。
自分のテリトリーを侵害される。
時として言葉はそれを侵害する術にもなり得ます。

人間自分の自覚しえない言動をしてしまう事もあるでしょう。
そんな時はなぜ自分がそう言ってしまったか、
そんな事を省みる事で自分を知るきっかけになる事と思います。

分析希望の方がいらっしゃれば、
その際はぜひお声がけくださいね。

願望実現

今回は今年私の叶えたい願望について書き記したいと思います。

私は20代前半にはじめてヨガを体現して、
おおよそ20年の月日が経とうとしています。

記憶は一瞬であの頃に戻れますがだいぶ日が経ちました。

そして4年前ヨガインストラクターデビューして
ここ2年はヨガインストラクターの活動はお休みしています。
その理由は体調を崩し、身体の動きにだいぶ制限ができてしまったからです。
日常生活にも支障をきたす程なので、
今まで限界を超えるほど取り組んできた、トレーニング、ヨガ、ダンスなど
一切できなくなってしまいました。

でもここに至るまで、何度となくヨガがやりたいという思いに駆られています。

もちろん、ヨガ=激しい動き
でもないし、いわゆる身体を動かすヨガ(ハタヨガ)だけでもありません。

祈りを捧げるバクティヨガ、学びのジャニーニャヨガ、など
ヨガの種類はいくつかあり、
ハタヨガが難しくなってからは他のヨガには取り組んできました。
でもやっぱりハタヨガがやりたいし、みんなとその時間を共有したいんですね。

と言う事で
今年はどの程度になるかわかりませんが、
今のわたしでもできるヨガクラスを開催したいと考えています。
あともうひとつ、
わたくし占星術を学んでいて、占い師の経歴もあるのですが
占いのワークショップや対面鑑定にチャレンジしたいと考えています。

他にも細々やりたいことはあるのですが
一番の目標はヨガクラス開講です。

一念発起して、
呼吸法からアーサナ(ポーズ)、瞑想を盛り込んだシークエンス(ポーズの流れ)
を組んで、皆さんとすてきな時間を共有したいです!

毎年隔年か記憶はあいまいですが、
この時期は何かはじめたい意欲に駆られます。

同じく何かはじめたい方、
わくわくしたい方ともこんな思いを共有出来たらうれしいです。

☆ちなみにヨガってなに?
私の言葉で言うとこころの状態を感じる事です。
抽象的な表現ですが、
人は考える生き物で本心を思考で覆いかぶせてしまいがちです。
考えることは大切ですが、
考えることと感じることは別です。
自分が今何を感じたか、そんな事を大切にする。
こころを大切にする。それが私にとってのヨガです。
やはり抽象的ですねw

こころの在り方と反芻3

余談ですが、今日は待ちに待ったステンドグラス作りをして来ました。

席に座った瞬間からもう楽しい、とにかく楽しくて仕方ありません♪

最近強く感じていることですが、
日常生活を送る上で必要な事とそうでもない事があります。
その振り幅や定義はそれぞれですが、
私にとってやってもやらなくてもいい事をあえてやってみる事。
これが楽しい事で、いわゆる趣味というものですね。

先日も『紙すき』をやってきました。
端的に言うと紙を作ります。
これも楽しくて楽しくてたのしいが止まりませんでした。

そして今回はステンドグラス作り。
仕上がりは初回とは思えぬ完成度、私のセンスを生かした配色。
先生からも褒められまくる120点の出来栄えでした☆

こうした単純に好きな事を楽しむ。
(副産物としては褒められる。)

こういった時間が心の栄養になっていくと私は実感しています。

前回、修練と離欲。
という言葉で締めくくりましたが、
これはヨガ哲学の言葉です。

修練しながら欲を手離していく。

例えば、今回のステンドグラス作り。
チャレンジすることが修練とします。
チャレンジすると途中うまくいかない事もあります。
そんな時、葛藤する思い、ジレンマ、乗り越える。作り上げる。
その過程には葛藤を手離すという仮定が含まれてきます。
こうしたら作品がダメになってしまうかもしれない、等々
でもやってみよう、3歩進んで2歩下がる。
そんなイメージですかね。

※離欲は執着心を手離す。
ヨガではそうすることで心の波立ちを制御しようという教えです。

例えば話の得意な私にしては‐30点の例え話になってしまいましたが、

人生はトライアンドエラーの繰り返し。
特に意識せずとも皆さんやっている事です。
ただ時に深い溝に落ち、なかなか這い上がれない時もあると思います。
そんな時は抱えてるものを手離す。
そんな方向に考えてみたら、きっと肩の荷が軽くなるでしょう。
一人で難しい時は誰かに頼っても善。

むしろ、頼ることを厭わず
こころの内を人に話すことで話した相手と信頼関係を築くこともできます。
うまく話せなかったり、話した自分を責めてしまったり、
そんな事も最初はあるかもしれません。
もし行き詰って苦しくなってしまった。
そんな時は私も微力ながらお力添えできたらと思っています。

こころの在り方と反芻2

前回の続きです。

私は今しあわせというものを感じられる生き方ができるようになりました。
『私はしあわせです。』
と胸を張って言える日がくるなんてなんだか不思議な気分です。

ではなぜ私はしあわせになれたのでしょう?

遡る事4年前。
2018年の年末。
2019年の目標を掲げたいと思い立ち浮かんだことが
ヨガと占いで人をしあわせにしよう。
でした。

そしてヨガインストラクター養成講座を調べ、
年明け2019年1月、2か所養成講座の体験に行き受講先を決め、
1月26日。私の誕生日に講座代金を入金しました。
講座は2月15日からはじまり、毎週日曜午前と午後。
やると決めたら行動の早い私。
当時生後7か
月の赤ちゃんの育児中でしたが、
寝不足で心身疲労マックスの中、最短半年で講座を修了しました。
そこから自主開催でヨガ講座を開講。
養成講座の受講が始まった同時期、
社宅の上の階の人がマイホームを買い引っ越したのをきっかけに
私もマイホームを探し、2週間で購入を決定。
この行動力をいつも間近で見ている夫は私が発言するときはもう決定事項。
と理解してくれているようです。
今文章を書いてても思いますが、私の行動力・実行力たるや光の速さですね。
有言実行とは私のためにある言葉なのではないかと常々感じております。
そんなこんなでマイホームも自宅サロンに適したリビングを優先事項に決め
無事念願のマイホームも購入しました。

だいぶ話はそれてしまいましたが、

はじめの動機は『人をしあわせにしよう。』だったのです。
ただここに関して今は…
少し考え方が変わりました。
今はわたしのしあわせな姿を背中をみてほしい。といいますか
私がしあわせでいることで周りの人に伝わったらいいなぁと思っています。

ある時みやぞんが、
自分がしあわせになれば、そのやり方を人に教えてあげられるじゃない。
この言葉に感銘を受け今に至ります。

そして実際に行った事は
自分のやりたい事をやる。
やりたくない事はやらない、とまではいかないけれども
やりたくない時には無理しない。です。
もっと話の内容に具体性が欲しいですよね。

ただ丸4年掛った事まとめるとこんな感じです。

しあわせを感じられなかった時は強迫観念の塊で
やりたい事よりやらなければいけない事を優先していました。
それが正義だと言わんばかりに。
そして今はやらなければならない事なんてほぼないと考えています。
もちろんやった方がいいことはたくさんあります。
なんというか捉え方、考え方が大きく変わったんですね。
そう変わるのにはヨガで言う
修練と離欲、アヴィアーサとヴァイラーギャ。
これにつきます。

この続きはまた次回に…

こころの在り方と反芻1

立春を過ぎ、私の想いも芽吹きだしたこの頃…

人と関わってはその人の言動や自分の感じたことを反芻しています。
この反芻、私にとっては当たり前のことで
ここに至るまでとても厄介な行いでした。

なんであの人はあんな事を言ったんだろう、
何か悪い事したかな?変な事言ってしまったかな?
延々続くひとり反省会。なんでなんで病。

それが日課、デフォルトになり、だいぶ経ってしまったので(いつからか記憶なし)
みんなそんなものだと思っていました。

ただここ2.3年、この反芻が皆ではないという事実が発覚!!
もう目から鱗でしたね。

まぁ端的に言うと私の気質、情緒のふり幅問題だったようです。
あえて問題として提起していますが、今は悪いものとは思っていません。

まず夫。
私の身近な相談員です。
この方『反芻』という言葉すら過ることのない人種です。
いつも私が何か言うと仕方ないとか良いとか悪いとか、
単純明快というか、あまり悩まない、考え込まないんです。
ストレスを受けたら眠くなる、寝たら飛んでいく。

他の友人も反芻の民同士は共感しあうもののそうでない人もいます。
私はそういった人が人の気持ちが理解できない、冷たい人間くらいに思っていました。
片一方から見ればそう思うのも誤りではないですが、
機能として備わっていなければ発動することもないものだったようです。

そして自分がなぜ反芻民族なのかを更に自問自答。
反芻をしない人との違いを紐解いていきました。

夫タイプの人達はそもそもあまり気にしないという性質があります。
他者への関心も薄いし、踏み込まない。
独立独歩、道は自分の後にできていくくらいの感覚です。

一報私タイプですが対人関係は他人ありき、
自分を主張しません。相手との間合いを図り続けます。
まぁ顔色を窺ったりとても慎重です。

この辺が大きな違いであり、私自身が生きづらさを感じてきた部分だと思います。

ふつうに考えて自分ファーストでない時間が長ければ長いほどストレスが増えます。
それは環境や状況の問題ではなく、心の在り方の問題です。
嫌いな人といても自分のありを保てていれば他人の影響は受けません。
その辺が私に欠けていた部分のようです。

そんな事を考えるようになって私が実行したことはまた次回にでも。