こころの在り方と反芻1

立春を過ぎ、私の想いも芽吹きだしたこの頃…

人と関わってはその人の言動や自分の感じたことを反芻しています。
この反芻、私にとっては当たり前のことで
ここに至るまでとても厄介な行いでした。

なんであの人はあんな事を言ったんだろう、
何か悪い事したかな?変な事言ってしまったかな?
延々続くひとり反省会。なんでなんで病。

それが日課、デフォルトになり、だいぶ経ってしまったので(いつからか記憶なし)
みんなそんなものだと思っていました。

ただここ2.3年、この反芻が皆ではないという事実が発覚!!
もう目から鱗でしたね。

まぁ端的に言うと私の気質、情緒のふり幅問題だったようです。
あえて問題として提起していますが、今は悪いものとは思っていません。

まず夫。
私の身近な相談員です。
この方『反芻』という言葉すら過ることのない人種です。
いつも私が何か言うと仕方ないとか良いとか悪いとか、
単純明快というか、あまり悩まない、考え込まないんです。
ストレスを受けたら眠くなる、寝たら飛んでいく。

他の友人も反芻の民同士は共感しあうもののそうでない人もいます。
私はそういった人が人の気持ちが理解できない、冷たい人間くらいに思っていました。
片一方から見ればそう思うのも誤りではないですが、
機能として備わっていなければ発動することもないものだったようです。

そして自分がなぜ反芻民族なのかを更に自問自答。
反芻をしない人との違いを紐解いていきました。

夫タイプの人達はそもそもあまり気にしないという性質があります。
他者への関心も薄いし、踏み込まない。
独立独歩、道は自分の後にできていくくらいの感覚です。

一報私タイプですが対人関係は他人ありき、
自分を主張しません。相手との間合いを図り続けます。
まぁ顔色を窺ったりとても慎重です。

この辺が大きな違いであり、私自身が生きづらさを感じてきた部分だと思います。

ふつうに考えて自分ファーストでない時間が長ければ長いほどストレスが増えます。
それは環境や状況の問題ではなく、心の在り方の問題です。
嫌いな人といても自分のありを保てていれば他人の影響は受けません。
その辺が私に欠けていた部分のようです。

そんな事を考えるようになって私が実行したことはまた次回にでも。